Jun 5, 2012 - blog    1 Comment

Re: ねとぽよ2号
- ARG概念についての考察

ねとぽよ、という電子書籍/ノンフィクション雑誌/同人誌/サークル、をご存知でしょうか。私は知りませんでした。ほんの数ヶ月前までは1

1号は2011年12月の冬コミで、2号は2012年5月の文学フリマで、それぞれ発行されました。お値段は1,000円くらいなんですが、ともかくページ数が多い。特集が突き抜けていて、デザインが秀逸で、手抜きのない構成。
最初に1号を読んだ時にも、そのあまりのボリュームとテンションに舌を巻いたものでしたが、2号に至っては、もっと根本的な、具体的なアクションを私に要請するものでした。

「これは私にだけ送られた特別なメッセージだ」という読み方の出来る本こそが読者を惹きつけるのだ、と聞いたことがあります。
私にとって、ねとぽよ2号は、そういう存在です。

This is not a game – これはゲームではない

「見慣れた情報媒体=アーキテクチャで、嘘が展開していくこと。存在しないはずのものがぬけぬけとそこにあること。物語を云々する以前に、そのこと自体が私たちを不思議な気持ちにさせる。(ねとぽよ2号, p.4)」
今回の巻頭を飾ったのはARG2 特集です。3部構成となっており、はじめに、今ではあまりにも広義の意味を持つようになってしまったこの単語がいかにしてアメリカで生まれ、育ってきたか、またそれが今どのように提供/消費/体験されているか、ということが事例とともに紹介されています。
中でも印象的だったのは「Why so Serious?」という作品についての言及です。

「この「Why so Serious?」は、「360° EXPERIENCE」という考え方で作られています。つまりプレイヤーを360°ぐるりと取り囲むようにして、あらゆる日常的なメディア——携帯電話、インターネット、雑誌、電車、車、道路広告など、彼らを取り囲むあらゆる日常を利用して作られています。(p.11)」
参加者はあらかじめ性格診断テストによってゲーム内での役割を与えられ3 、「トランスメディアストーリーテリング4 」によりゲームを体験していきます。
ここで注目したいのは、そのゲーム体験は、体験の仕方が殆ど現実と同じである、という点です。

「世界」の定義
 - 物語性を持った生き物としての世界

私たちが世界に誕生する時には、「自然環境」の中にではなく、「すでに人間の諸経験が「文化」として累積されている人為的世界 (佐藤臣彦『身体教育を哲学する―体育哲学叙説』, 北樹出版, 1993, p.115)」に生まれてきます。

「人間は誰しも、自分の社会、文化環境とその背景、特定の景観を『世界』の一部として体験」(同書, p.119) しており5 、またその「世界」=「生活世界」は、(私たち個々人が好き勝手に作り替えられるようなものではない、という意味で)「それ自体が「生」あるかのごとく存在」(同書, p.117) してもいます。
人間経験の総体が歴史/伝統/文化として所与となった世界=「生活世界 6 」は、私たちを取り巻く環境要因として、私たちを次第に「社会化」=「ヒト」から「人間」へと教育します。
つまり、外側から与えられた情報/状況に間断なく適応していくことによって、私たち個々人と世界との関係は成り立っており7 、「世界」とは、その都度立ち上がってくる周囲と自身との個別的な関係そのものでもあるのです。

では、今目の前にある情報、現実、あるいは世界が、嘘の情報によって構成されていないと断じる根拠は?

虚実の揺らぎ

ARGをARGとして、あくまで「代替現実ゲーム」として論じることそのものに対して私が感じていた引っ掛かりは、ここにありました。
前出の定義を是とするのであれば、(1)世界は生きていて (2)そこに意図的に加えられた改竄/工夫/遊びを「非現実」として認識した時にそれは「ゲーム」となるが (3)そうと知れるまでの間は、それは現実と同様に「世界を構成する一要素」に過ぎず、レッテル=名付けがなければ見分けがつかない、と考えられます。

私が言いたいのは、
(巻末のインタビューで大塚英志先生がご指摘なさっていたように8
私たちの周囲にある社会そのものも、大きな物語として私たちを包んでいるだけの(広く共有された)虚構であって、それは別に「どの程度現実に即している」とか「どの程度正しい」とか「どの程度科学的に立証されている」とかいうことで「信憑性」を比較検討され、十分信頼に値すると「ある程度保証」されているだけで、そんなに剛性の高いものではないのではないか、
ということなのです。

背景/常識/インフラ化

私たちに与えられた物語構造が、虚構のままでは終わらずに、社会そのものの構成要素としての剛性を持つ場合があります。
それは、「一般的な意味での常識」となった時、つまり「現実世界」を構成する大きな要素として「当然のように共有された背景」となった時です9
インターネットがひろく知られる以前は夢物語に過ぎなかったネットワークという幻想、欲望、それは、インターネットが現出することによって、SFの世界から現実世界へと具現化されました。
ARGとは、それを先取りして楽しむ遊びなのではないか。
つまり、まだ誰も知らない「背景としての」物語を、私たちだけが知っている世界として共有し合うことで、擬似的な世界をそこに創り上げてしまう、という遊びなのではないか——これが、今回のねとぽよ2号からイメージされる、ARGの定義なのです。

ARGとは「あってほしい/体験したい現実の姿」を先取りする遊びである、という定義が正しいのだとすれば、もともと個人レベルでなされていたこと10 を「周囲に拡張」した、という意味で、境界線を疑い続ける近代化という流れの到達地点と位置付けることが出来るのかも知れません。

「Totus Mundus Agit Histrionem」
 - 全世界は劇場なり

ねとぽよは、本誌ももちろんですが、紹介エントリの充実ぶりや、公式マスコット選挙事件など、一言で言うと熱量がおかしい感じがして、目が離せません。
自分の関与していないところで起こる大きな物語。
私はそれをねとぽよに見ていて、その物語が今まさに紡がれんとする様を、あるいは出力されたものを、常にちょっと早いか遅いかしながら追っているのです。

 
2012.06.06 追記
twitterで実質編集長の稲葉ほたてさんからリプが来たので、大量レスしました。
ほたてさんとヨコイさん インターネットと社会のはなし(仮)


  1. 降って湧いたようなご縁でお付き合いが始まって、何となく生放送部の人?みたいな雰囲気で末席を汚しております。 

  2. 代替現実ゲーム=Alternate Reality Gameのこと。特集で言外に提案されている「architecture of role-play generativeness」もかなり魅力的ですが。
    「ある特定のジャンルのゲームの事を指すものではなく、現実世界とネット世界、映画作品内あるいはTVゲーム内の世界を地続きの一つの世界としてプレイヤーに認識(場合によって誤認、錯覚)させ、ストーリーをプレイヤー自身が能動的/受動的に展開していく、プレイヤー参加型のゲーム、もしくはそれに似た形式によってバイラル効果を持って展開される広告手法を総称してARGと呼ぶ。」- ニコルソンより 

  3. 制作者ジェイン・マクゴニガルさんの著作『Reality is broken』(翻訳版『幸せな未来は「ゲーム」が創る』)でも言及されている、とのことです。 

  4. ARGの手法の1つで、複数のメディアを横断しながら一つの世界観を物語っていく、というもの。 

  5. ゲーレン (Arnold Gehlen, 1904-76) による。 

  6. 前掲書ではフッサールに倣ってこう名付け、
    (1)「特定の言語共同体」であり、(2) 特定の宗教、道徳や各種体制、制度等を内在させ、更に時間的・空間的にも限定された、歴史的・具体的な「特殊生活世界」(同, p.116)、と定義しています。 

  7. 「それぞれの生物種には、自らの生を維持するために特殊化された固有の「環境世界」が存在」 (同書, p.117)しており、「動(生)物と彼らがそこに生きる環境世界との間には、厳格な個別的特定性が存在」(同書, p.118)する (ユクスキュル (Jakob von Uexküll, 1864-1944) による) 。 

  8. 「物語とは本来虚実のボーダーライン上に発生する禁忌的な存在であって、それに対して昔話とはそれを切断するような形で語り始めて、物語の安全性みたいなものを担保するようなシステムだったわけね。でも近代は物語の安全装置をより求めていった時代じゃない。その傾向は強くなっているかも知れない。いくら「フィクションとしての物語」と「事実としての歴史」を区分していったところで、事実を語っていく限りにおいてそれは必ず物語になっていくわけで、物語と歴史は同義だよ(ねとぽよ2号, p.158)」 

  9. 『身体教育を哲学する』では「ヘーゲルが述語化し、マルクスが受け継いだ「疎外」概念」(p.125)を用いています。
    「疎外」とは、(1)人間主体による自らの制作物の「外化」、(2)外化された人為的制作物による人間の「支配」あるいは「拘束」という二重の関係構造をいう(pp.125-126)。「社会」という関係形式であった事象が「制度」として形象化/外化されて「自存性」を獲得し、われわれを逆に支配し拘束するに至ったならば、それは「文化」に転化した、といえる(p.126)。 

  10. 私たちの生自体も、「絶え間なく新陳代謝を繰り返して生まれ変わり続ける(物理的には全く別の、新しい)身体と、それを制御するソフトウェアとしての「私」という「物語」の維持」と言えます。
    この辺りの発想は様々なソースがありますが『生物と無生物のあいだ』福岡伸一, 講談社, 2007) などは読みやすいのでお勧めです。 

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