Jun 14, 2012 - blog    No Comments

Now it’s virtual insanity,
 Forget your virtual reality

前回の記事のあと、ねとぽよ実質編集長の稲葉ほたてさん、象徴編集長の斉藤大地さんとそれぞれやり取りをさせて頂いたので、補論として更新します。

リアル/バーチャル/フィクション

「僕がARG特集で念頭に置いていたのは、J.J.ギブソン『生態学的視覚論1 と後期ハイデガーの一連の著作でした」(稲葉ほたて, 2012/06/05)
「人間が環境からの情報に反応する生物だとして、そのときフィクションはどう位置づけられるのか。普通に考えれば、情報という概念は嘘と現実を本質的に区別する概念ではないので、フィクションは存在しません。(……)
ただ、僕としてはARG特集を組んだのは、その先に問題意識があったつもりでした。それは「代替現実感」と呼ばれる感覚にあります。これは取材してみると、「リアルでフィクショナルな体験をしている感覚」に近いものでした。(……)
要は、彼らが議論の構造レベルで否定しようとした(?)フィクションの問題を、彼らの議論の延長線上で再定義してみたかったのです」(同, 2012/06/05)

私の見解は、(1)「情報」は世界を微分した姿でしかない2 が、(2)高度情報化社会においては、私たちはその「情報」を世界の一部として体験しており、真偽の判断は個々人の良識と経験と欲望に依存するため (3)フィクションだという記号なしにその境界線を維持/認識し続けることは困難である、というものです。

未だ現出していない、という意味では夢も未来予測も妄想≒フィクションも大差なく、その「夢」に向かって現実からどのように架橋するか、ということが問題のように思われるのです。
その中で、フィクションとは「フィクション然としていること」「フィクションという記号をもっていること」によって初めて「安全な遊びのためのツール」になることが出来るのであって、それを現実と地続きのものと信じて向かっていく人が出てきてしまった時に、それは最悪の形で「現実になる」のかも知れないのです。突拍子もない絵空事ならいざ知らず、実現可能なサイズにまで問いを縮小出来て、具体的なプロセスを思い描くことが出来たなら、それは殆ど止められない強さで現出してしまうのではないかと。

メディアとしての身体

「ARGの話をしていると、よく引き合いに出されるのがオウム真理教の事件です。僕らは子供の頃にそれを見てきた。ARGは遊びで、フィクションです。それが現実を浸食するなんていうことは、あってはならない」(斉藤大地, 2012/06/08)

フィクションが変えられるのは一人の人間の気の持ちよう≒意識の部分だけです。でもその「夢」を共有する人間が集まって組織を作って実際に兵器を開発し始めたら、それはもうフィクションではなくて現実レベルの話になっている。
ARGは世界を変えない3 。けれど、契機にはなり得る。個人を変えるということは、その個人の身体性を通じて、世界を変えることと結びつきます。世界とは自身の身体を通じて知覚する周辺のことであり(固有性)、またその感覚を共有するもの同士が周辺環境を呼ぶときの呼称であり(抽象性)、いずれにしてもそれは身体を起点としているのです4

私たちは、現実の脆さを知っています。「皆の信頼によって剛性を獲得」したものが世の中に数多くあって、それはある手順を踏めば驚くほど簡単に転覆出来てしまうであろうことも。そして、多くの場合それは望まない形でしか実現しないであろうことも。
わたしがねとぽよの編集長のお二人から感じた、現実とフィクションを峻別したいと欲望する気持ち、現実の剛性を信じたいという気持ちは、この辺りに源泉があるのかも知れません。


  1. ギブソンの著作は視覚論の話なので、このロジックで「知覚」を扱おうとするのはちょっと微分し過ぎなのではないか、という気もしています。 

  2. 「私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知らされたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験(expérience du monde)から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうであろう。(……)
    科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ」(メルロー・ポンティ『知覚の現象学 1』, pp.3-4)
    あと、水越伸『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』も遠くから響いてくる感じがします。こちらをご覧下さい。 

  3. 日本には階層構造が殆どないので見落とされがちですが、米国でARGを打った時に、それに気付いてアクション出来た人々がどの程度の知性と財力を持ち合わせていたかということは考えても良い気がします。 

  4. 身体性、身体論については語り始めるときりがないので別の機会に譲ります。 

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