Apr 8, 2013 - blog, live    No Comments

20130404 荻窪ギターポップ・カフェvol.2

荻窪アルカフェで開催された『荻窪ギターポップ・カフェ』というイベントで歌ってきました。
USTREAMもありますー

ギタポカフェという略称で呼ばれることがどうやら決まったようです。
前回呼んで頂いた時がアルカフェデビュー戦で、もう右も左も!という感じだったのですが、今回はチラシやロゴを作ったりして遊んでみました。ギターの腕はすぐには上がらないけど、デザインものならすぐ作れるし、と思って。

ギタポカフェでは毎回、出演者から「私のギターポップ」として1曲紹介することになっています。
私が選んだのは中村一義さんの「セブンスター」。
1曲まるまる流して頂く間に歌詞スケブをめくって、喋って、先に配るつもりで忘れていたフライヤーを浅井かすかさん(※ホスト)に配って頂いて、歌ってきました。

セットリスト:

  1. 恋よりもさきに身体が
  2. コーヒー
  3. 栗鼠も、きつと
  4. ミルキーウェイ
  5. また会う日まで

短歌曲が入るといきなり曲数が多くなるので沢山やった風ですが、実際に歌っていたのは15分くらいです。またもや喋り過ぎてしまった。
というか浅井かすかさんのことがスキ過ぎて云々等と言いながらフライヤーを配ってもらうとか、我ながら意味が分からない。イヤ楽しかったですが!

ロゴもめでたく公式採用となりまして、vol.表記のあるバージョンから少し作り替えてアルカフェのサイトに載せて頂いているようです。ありがた過ぎる。

次回のアルカフェ出演は5/10(金)アルカフェスタ☆GuitarNight vol.5なのですが、そういやその辺りのことを全然喋らずに帰ってきてしまった…
今回は「ポップ」面を強調すべく明るい曲でお送りしましたが、5月はまた違った路線の楽曲でお送りしますので、もしお時間ある方は是非また遊びにいらして下さい。
4/5(金)のGuitarNight vol.4も素晴らしく楽しかったので、それに勝るとも劣らない楽しいイベントに出来たらなーと思っています。

どうぞよろしくお願いします!

Mar 6, 2013 - blog, live    No Comments

20130214 Women’s Voices -Happy Valentine’s Day

荻窪アルカフェで開催された『Women’s Voices』というイベントで歌ってきました。
例によってUSTREAM配信も。ありがたや。

この日はバレンタインということで、出演者の女性陣から(一部)チョコの振る舞いがあったりと、楽しいイベントでした!
私は女子力が低いのでそのへん全く用意も出来てなかったんですが、トホホ。

セットリスト:

  1. コーヒー
  2. 君を泣く
  3. ミルキーウェイ

出演者のお一人、飯田夕さんとはプライベートでも意外なご縁があったので、そのあたりは今後掘り下げていきたいところです。
客席にいたのに浅井かすかさん(前回の荻窪ギターポップカフェのホスト)の存在感といったら!(笑)

このイベントニ連発を機に、私はすさまじい勢いでアルカフェ常連化が進行していくのですが、それはまた別のお話。

ギターだとピアノに比べて男性陣とご一緒する機会が多いような気がしますが、女性アーティストの皆さんとの繋がりも大切にしたいなあと思います。

Feb 16, 2013 - blog, live    No Comments

20130207 荻窪ギターポップ・カフェ vol.1

荻窪アルカフェで開催された『荻窪ギターポップ・カフェ』というイベントで歌ってきました。
USTREAMもありますー

ホストの浅井かすかさんのことが好き過ぎて、普通に観に行くつもりだったのですが、いつの間にか出して頂ける話になっていて、この僥倖具合にちょっと認識力がついていきません。本当いつの間に…?

セットリスト:

  1. 君を泣く
  2. ミルキーウェイ

深久の相方、島林深雪と続けてのステージで、私→島林という流れ。島林パートの最後にチラッと呼んで頂いて、「謎のエネルギー」という曲も歌ってきました。

出演者の皆さんが、もうホントにすごくて!
なにげに1人での弾き語りは初ステージだったのですが、愉しくも有意義なひとときを過ごさせて頂きました。もっと届けられるステージにしたい。
暖かく迎え入れて下さった皆様に感謝します。
頑張ります!

Jun 14, 2012 - blog    No Comments

Now it’s virtual insanity,
 Forget your virtual reality

前回の記事のあと、ねとぽよ実質編集長の稲葉ほたてさん、象徴編集長の斉藤大地さんとそれぞれやり取りをさせて頂いたので、補論として更新します。

リアル/バーチャル/フィクション

「僕がARG特集で念頭に置いていたのは、J.J.ギブソン『生態学的視覚論1 と後期ハイデガーの一連の著作でした」(稲葉ほたて, 2012/06/05)
「人間が環境からの情報に反応する生物だとして、そのときフィクションはどう位置づけられるのか。普通に考えれば、情報という概念は嘘と現実を本質的に区別する概念ではないので、フィクションは存在しません。(……)
ただ、僕としてはARG特集を組んだのは、その先に問題意識があったつもりでした。それは「代替現実感」と呼ばれる感覚にあります。これは取材してみると、「リアルでフィクショナルな体験をしている感覚」に近いものでした。(……)
要は、彼らが議論の構造レベルで否定しようとした(?)フィクションの問題を、彼らの議論の延長線上で再定義してみたかったのです」(同, 2012/06/05)

私の見解は、(1)「情報」は世界を微分した姿でしかない2 が、(2)高度情報化社会においては、私たちはその「情報」を世界の一部として体験しており、真偽の判断は個々人の良識と経験と欲望に依存するため (3)フィクションだという記号なしにその境界線を維持/認識し続けることは困難である、というものです。

未だ現出していない、という意味では夢も未来予測も妄想≒フィクションも大差なく、その「夢」に向かって現実からどのように架橋するか、ということが問題のように思われるのです。
その中で、フィクションとは「フィクション然としていること」「フィクションという記号をもっていること」によって初めて「安全な遊びのためのツール」になることが出来るのであって、それを現実と地続きのものと信じて向かっていく人が出てきてしまった時に、それは最悪の形で「現実になる」のかも知れないのです。突拍子もない絵空事ならいざ知らず、実現可能なサイズにまで問いを縮小出来て、具体的なプロセスを思い描くことが出来たなら、それは殆ど止められない強さで現出してしまうのではないかと。

メディアとしての身体

「ARGの話をしていると、よく引き合いに出されるのがオウム真理教の事件です。僕らは子供の頃にそれを見てきた。ARGは遊びで、フィクションです。それが現実を浸食するなんていうことは、あってはならない」(斉藤大地, 2012/06/08)

フィクションが変えられるのは一人の人間の気の持ちよう≒意識の部分だけです。でもその「夢」を共有する人間が集まって組織を作って実際に兵器を開発し始めたら、それはもうフィクションではなくて現実レベルの話になっている。
ARGは世界を変えない3 。けれど、契機にはなり得る。個人を変えるということは、その個人の身体性を通じて、世界を変えることと結びつきます。世界とは自身の身体を通じて知覚する周辺のことであり(固有性)、またその感覚を共有するもの同士が周辺環境を呼ぶときの呼称であり(抽象性)、いずれにしてもそれは身体を起点としているのです4

私たちは、現実の脆さを知っています。「皆の信頼によって剛性を獲得」したものが世の中に数多くあって、それはある手順を踏めば驚くほど簡単に転覆出来てしまうであろうことも。そして、多くの場合それは望まない形でしか実現しないであろうことも。
わたしがねとぽよの編集長のお二人から感じた、現実とフィクションを峻別したいと欲望する気持ち、現実の剛性を信じたいという気持ちは、この辺りに源泉があるのかも知れません。


  1. ギブソンの著作は視覚論の話なので、このロジックで「知覚」を扱おうとするのはちょっと微分し過ぎなのではないか、という気もしています。 

  2. 「私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知らされたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験(expérience du monde)から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうであろう。(……)
    科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ」(メルロー・ポンティ『知覚の現象学 1』, pp.3-4)
    あと、水越伸『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』も遠くから響いてくる感じがします。こちらをご覧下さい。 

  3. 日本には階層構造が殆どないので見落とされがちですが、米国でARGを打った時に、それに気付いてアクション出来た人々がどの程度の知性と財力を持ち合わせていたかということは考えても良い気がします。 

  4. 身体性、身体論については語り始めるときりがないので別の機会に譲ります。 

Jun 5, 2012 - blog    1 Comment

Re: ねとぽよ2号
- ARG概念についての考察

ねとぽよ、という電子書籍/ノンフィクション雑誌/同人誌/サークル、をご存知でしょうか。私は知りませんでした。ほんの数ヶ月前までは1

1号は2011年12月の冬コミで、2号は2012年5月の文学フリマで、それぞれ発行されました。お値段は1,000円くらいなんですが、ともかくページ数が多い。特集が突き抜けていて、デザインが秀逸で、手抜きのない構成。
最初に1号を読んだ時にも、そのあまりのボリュームとテンションに舌を巻いたものでしたが、2号に至っては、もっと根本的な、具体的なアクションを私に要請するものでした。

「これは私にだけ送られた特別なメッセージだ」という読み方の出来る本こそが読者を惹きつけるのだ、と聞いたことがあります。
私にとって、ねとぽよ2号は、そういう存在です。

This is not a game – これはゲームではない

「見慣れた情報媒体=アーキテクチャで、嘘が展開していくこと。存在しないはずのものがぬけぬけとそこにあること。物語を云々する以前に、そのこと自体が私たちを不思議な気持ちにさせる。(ねとぽよ2号, p.4)」
今回の巻頭を飾ったのはARG2 特集です。3部構成となっており、はじめに、今ではあまりにも広義の意味を持つようになってしまったこの単語がいかにしてアメリカで生まれ、育ってきたか、またそれが今どのように提供/消費/体験されているか、ということが事例とともに紹介されています。
中でも印象的だったのは「Why so Serious?」という作品についての言及です。

「この「Why so Serious?」は、「360° EXPERIENCE」という考え方で作られています。つまりプレイヤーを360°ぐるりと取り囲むようにして、あらゆる日常的なメディア——携帯電話、インターネット、雑誌、電車、車、道路広告など、彼らを取り囲むあらゆる日常を利用して作られています。(p.11)」
参加者はあらかじめ性格診断テストによってゲーム内での役割を与えられ3 、「トランスメディアストーリーテリング4 」によりゲームを体験していきます。
ここで注目したいのは、そのゲーム体験は、体験の仕方が殆ど現実と同じである、という点です。

「世界」の定義
 - 物語性を持った生き物としての世界

私たちが世界に誕生する時には、「自然環境」の中にではなく、「すでに人間の諸経験が「文化」として累積されている人為的世界 (佐藤臣彦『身体教育を哲学する―体育哲学叙説』, 北樹出版, 1993, p.115)」に生まれてきます。

「人間は誰しも、自分の社会、文化環境とその背景、特定の景観を『世界』の一部として体験」(同書, p.119) しており5 、またその「世界」=「生活世界」は、(私たち個々人が好き勝手に作り替えられるようなものではない、という意味で)「それ自体が「生」あるかのごとく存在」(同書, p.117) してもいます。
人間経験の総体が歴史/伝統/文化として所与となった世界=「生活世界 6 」は、私たちを取り巻く環境要因として、私たちを次第に「社会化」=「ヒト」から「人間」へと教育します。
つまり、外側から与えられた情報/状況に間断なく適応していくことによって、私たち個々人と世界との関係は成り立っており7 、「世界」とは、その都度立ち上がってくる周囲と自身との個別的な関係そのものでもあるのです。

では、今目の前にある情報、現実、あるいは世界が、嘘の情報によって構成されていないと断じる根拠は?

虚実の揺らぎ

ARGをARGとして、あくまで「代替現実ゲーム」として論じることそのものに対して私が感じていた引っ掛かりは、ここにありました。
前出の定義を是とするのであれば、(1)世界は生きていて (2)そこに意図的に加えられた改竄/工夫/遊びを「非現実」として認識した時にそれは「ゲーム」となるが (3)そうと知れるまでの間は、それは現実と同様に「世界を構成する一要素」に過ぎず、レッテル=名付けがなければ見分けがつかない、と考えられます。

私が言いたいのは、
(巻末のインタビューで大塚英志先生がご指摘なさっていたように8
私たちの周囲にある社会そのものも、大きな物語として私たちを包んでいるだけの(広く共有された)虚構であって、それは別に「どの程度現実に即している」とか「どの程度正しい」とか「どの程度科学的に立証されている」とかいうことで「信憑性」を比較検討され、十分信頼に値すると「ある程度保証」されているだけで、そんなに剛性の高いものではないのではないか、
ということなのです。

背景/常識/インフラ化

私たちに与えられた物語構造が、虚構のままでは終わらずに、社会そのものの構成要素としての剛性を持つ場合があります。
それは、「一般的な意味での常識」となった時、つまり「現実世界」を構成する大きな要素として「当然のように共有された背景」となった時です9
インターネットがひろく知られる以前は夢物語に過ぎなかったネットワークという幻想、欲望、それは、インターネットが現出することによって、SFの世界から現実世界へと具現化されました。
ARGとは、それを先取りして楽しむ遊びなのではないか。
つまり、まだ誰も知らない「背景としての」物語を、私たちだけが知っている世界として共有し合うことで、擬似的な世界をそこに創り上げてしまう、という遊びなのではないか——これが、今回のねとぽよ2号からイメージされる、ARGの定義なのです。

ARGとは「あってほしい/体験したい現実の姿」を先取りする遊びである、という定義が正しいのだとすれば、もともと個人レベルでなされていたこと10 を「周囲に拡張」した、という意味で、境界線を疑い続ける近代化という流れの到達地点と位置付けることが出来るのかも知れません。

「Totus Mundus Agit Histrionem」
 - 全世界は劇場なり

ねとぽよは、本誌ももちろんですが、紹介エントリの充実ぶりや、公式マスコット選挙事件など、一言で言うと熱量がおかしい感じがして、目が離せません。
自分の関与していないところで起こる大きな物語。
私はそれをねとぽよに見ていて、その物語が今まさに紡がれんとする様を、あるいは出力されたものを、常にちょっと早いか遅いかしながら追っているのです。

 
2012.06.06 追記
twitterで実質編集長の稲葉ほたてさんからリプが来たので、大量レスしました。
ほたてさんとヨコイさん インターネットと社会のはなし(仮)


  1. 降って湧いたようなご縁でお付き合いが始まって、何となく生放送部の人?みたいな雰囲気で末席を汚しております。 

  2. 代替現実ゲーム=Alternate Reality Gameのこと。特集で言外に提案されている「architecture of role-play generativeness」もかなり魅力的ですが。
    「ある特定のジャンルのゲームの事を指すものではなく、現実世界とネット世界、映画作品内あるいはTVゲーム内の世界を地続きの一つの世界としてプレイヤーに認識(場合によって誤認、錯覚)させ、ストーリーをプレイヤー自身が能動的/受動的に展開していく、プレイヤー参加型のゲーム、もしくはそれに似た形式によってバイラル効果を持って展開される広告手法を総称してARGと呼ぶ。」- ニコルソンより 

  3. 制作者ジェイン・マクゴニガルさんの著作『Reality is broken』(翻訳版『幸せな未来は「ゲーム」が創る』)でも言及されている、とのことです。 

  4. ARGの手法の1つで、複数のメディアを横断しながら一つの世界観を物語っていく、というもの。 

  5. ゲーレン (Arnold Gehlen, 1904-76) による。 

  6. 前掲書ではフッサールに倣ってこう名付け、
    (1)「特定の言語共同体」であり、(2) 特定の宗教、道徳や各種体制、制度等を内在させ、更に時間的・空間的にも限定された、歴史的・具体的な「特殊生活世界」(同, p.116)、と定義しています。 

  7. 「それぞれの生物種には、自らの生を維持するために特殊化された固有の「環境世界」が存在」 (同書, p.117)しており、「動(生)物と彼らがそこに生きる環境世界との間には、厳格な個別的特定性が存在」(同書, p.118)する (ユクスキュル (Jakob von Uexküll, 1864-1944) による) 。 

  8. 「物語とは本来虚実のボーダーライン上に発生する禁忌的な存在であって、それに対して昔話とはそれを切断するような形で語り始めて、物語の安全性みたいなものを担保するようなシステムだったわけね。でも近代は物語の安全装置をより求めていった時代じゃない。その傾向は強くなっているかも知れない。いくら「フィクションとしての物語」と「事実としての歴史」を区分していったところで、事実を語っていく限りにおいてそれは必ず物語になっていくわけで、物語と歴史は同義だよ(ねとぽよ2号, p.158)」 

  9. 『身体教育を哲学する』では「ヘーゲルが述語化し、マルクスが受け継いだ「疎外」概念」(p.125)を用いています。
    「疎外」とは、(1)人間主体による自らの制作物の「外化」、(2)外化された人為的制作物による人間の「支配」あるいは「拘束」という二重の関係構造をいう(pp.125-126)。「社会」という関係形式であった事象が「制度」として形象化/外化されて「自存性」を獲得し、われわれを逆に支配し拘束するに至ったならば、それは「文化」に転化した、といえる(p.126)。 

  10. 私たちの生自体も、「絶え間なく新陳代謝を繰り返して生まれ変わり続ける(物理的には全く別の、新しい)身体と、それを制御するソフトウェアとしての「私」という「物語」の維持」と言えます。
    この辺りの発想は様々なソースがありますが『生物と無生物のあいだ』福岡伸一, 講談社, 2007) などは読みやすいのでお勧めです。 

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