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Jun 14, 2012 - blog    No Comments

Now it’s virtual insanity,
 Forget your virtual reality

前回の記事のあと、ねとぽよ実質編集長の稲葉ほたてさん、象徴編集長の斉藤大地さんとそれぞれやり取りをさせて頂いたので、補論として更新します。

リアル/バーチャル/フィクション

「僕がARG特集で念頭に置いていたのは、J.J.ギブソン『生態学的視覚論1 と後期ハイデガーの一連の著作でした」(稲葉ほたて, 2012/06/05)
「人間が環境からの情報に反応する生物だとして、そのときフィクションはどう位置づけられるのか。普通に考えれば、情報という概念は嘘と現実を本質的に区別する概念ではないので、フィクションは存在しません。(……)
ただ、僕としてはARG特集を組んだのは、その先に問題意識があったつもりでした。それは「代替現実感」と呼ばれる感覚にあります。これは取材してみると、「リアルでフィクショナルな体験をしている感覚」に近いものでした。(……)
要は、彼らが議論の構造レベルで否定しようとした(?)フィクションの問題を、彼らの議論の延長線上で再定義してみたかったのです」(同, 2012/06/05)

私の見解は、(1)「情報」は世界を微分した姿でしかない2 が、(2)高度情報化社会においては、私たちはその「情報」を世界の一部として体験しており、真偽の判断は個々人の良識と経験と欲望に依存するため (3)フィクションだという記号なしにその境界線を維持/認識し続けることは困難である、というものです。

未だ現出していない、という意味では夢も未来予測も妄想≒フィクションも大差なく、その「夢」に向かって現実からどのように架橋するか、ということが問題のように思われるのです。
その中で、フィクションとは「フィクション然としていること」「フィクションという記号をもっていること」によって初めて「安全な遊びのためのツール」になることが出来るのであって、それを現実と地続きのものと信じて向かっていく人が出てきてしまった時に、それは最悪の形で「現実になる」のかも知れないのです。突拍子もない絵空事ならいざ知らず、実現可能なサイズにまで問いを縮小出来て、具体的なプロセスを思い描くことが出来たなら、それは殆ど止められない強さで現出してしまうのではないかと。

メディアとしての身体

「ARGの話をしていると、よく引き合いに出されるのがオウム真理教の事件です。僕らは子供の頃にそれを見てきた。ARGは遊びで、フィクションです。それが現実を浸食するなんていうことは、あってはならない」(斉藤大地, 2012/06/08)

フィクションが変えられるのは一人の人間の気の持ちよう≒意識の部分だけです。でもその「夢」を共有する人間が集まって組織を作って実際に兵器を開発し始めたら、それはもうフィクションではなくて現実レベルの話になっている。
ARGは世界を変えない3 。けれど、契機にはなり得る。個人を変えるということは、その個人の身体性を通じて、世界を変えることと結びつきます。世界とは自身の身体を通じて知覚する周辺のことであり(固有性)、またその感覚を共有するもの同士が周辺環境を呼ぶときの呼称であり(抽象性)、いずれにしてもそれは身体を起点としているのです4

私たちは、現実の脆さを知っています。「皆の信頼によって剛性を獲得」したものが世の中に数多くあって、それはある手順を踏めば驚くほど簡単に転覆出来てしまうであろうことも。そして、多くの場合それは望まない形でしか実現しないであろうことも。
わたしがねとぽよの編集長のお二人から感じた、現実とフィクションを峻別したいと欲望する気持ち、現実の剛性を信じたいという気持ちは、この辺りに源泉があるのかも知れません。


  1. ギブソンの著作は視覚論の話なので、このロジックで「知覚」を扱おうとするのはちょっと微分し過ぎなのではないか、という気もしています。 

  2. 「私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知らされたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験(expérience du monde)から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうであろう。(……)
    科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ」(メルロー・ポンティ『知覚の現象学 1』, pp.3-4)
    あと、水越伸『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』も遠くから響いてくる感じがします。こちらをご覧下さい。 

  3. 日本には階層構造が殆どないので見落とされがちですが、米国でARGを打った時に、それに気付いてアクション出来た人々がどの程度の知性と財力を持ち合わせていたかということは考えても良い気がします。 

  4. 身体性、身体論については語り始めるときりがないので別の機会に譲ります。 

Jun 5, 2012 - blog    1 Comment

Re: ねとぽよ2号
- ARG概念についての考察

ねとぽよ、という電子書籍/ノンフィクション雑誌/同人誌/サークル、をご存知でしょうか。私は知りませんでした。ほんの数ヶ月前までは1

1号は2011年12月の冬コミで、2号は2012年5月の文学フリマで、それぞれ発行されました。お値段は1,000円くらいなんですが、ともかくページ数が多い。特集が突き抜けていて、デザインが秀逸で、手抜きのない構成。
最初に1号を読んだ時にも、そのあまりのボリュームとテンションに舌を巻いたものでしたが、2号に至っては、もっと根本的な、具体的なアクションを私に要請するものでした。

「これは私にだけ送られた特別なメッセージだ」という読み方の出来る本こそが読者を惹きつけるのだ、と聞いたことがあります。
私にとって、ねとぽよ2号は、そういう存在です。

This is not a game – これはゲームではない

「見慣れた情報媒体=アーキテクチャで、嘘が展開していくこと。存在しないはずのものがぬけぬけとそこにあること。物語を云々する以前に、そのこと自体が私たちを不思議な気持ちにさせる。(ねとぽよ2号, p.4)」
今回の巻頭を飾ったのはARG2 特集です。3部構成となっており、はじめに、今ではあまりにも広義の意味を持つようになってしまったこの単語がいかにしてアメリカで生まれ、育ってきたか、またそれが今どのように提供/消費/体験されているか、ということが事例とともに紹介されています。
中でも印象的だったのは「Why so Serious?」という作品についての言及です。

「この「Why so Serious?」は、「360° EXPERIENCE」という考え方で作られています。つまりプレイヤーを360°ぐるりと取り囲むようにして、あらゆる日常的なメディア——携帯電話、インターネット、雑誌、電車、車、道路広告など、彼らを取り囲むあらゆる日常を利用して作られています。(p.11)」
参加者はあらかじめ性格診断テストによってゲーム内での役割を与えられ3 、「トランスメディアストーリーテリング4 」によりゲームを体験していきます。
ここで注目したいのは、そのゲーム体験は、体験の仕方が殆ど現実と同じである、という点です。

「世界」の定義
 - 物語性を持った生き物としての世界

私たちが世界に誕生する時には、「自然環境」の中にではなく、「すでに人間の諸経験が「文化」として累積されている人為的世界 (佐藤臣彦『身体教育を哲学する―体育哲学叙説』, 北樹出版, 1993, p.115)」に生まれてきます。

「人間は誰しも、自分の社会、文化環境とその背景、特定の景観を『世界』の一部として体験」(同書, p.119) しており5 、またその「世界」=「生活世界」は、(私たち個々人が好き勝手に作り替えられるようなものではない、という意味で)「それ自体が「生」あるかのごとく存在」(同書, p.117) してもいます。
人間経験の総体が歴史/伝統/文化として所与となった世界=「生活世界 6 」は、私たちを取り巻く環境要因として、私たちを次第に「社会化」=「ヒト」から「人間」へと教育します。
つまり、外側から与えられた情報/状況に間断なく適応していくことによって、私たち個々人と世界との関係は成り立っており7 、「世界」とは、その都度立ち上がってくる周囲と自身との個別的な関係そのものでもあるのです。

では、今目の前にある情報、現実、あるいは世界が、嘘の情報によって構成されていないと断じる根拠は?

虚実の揺らぎ

ARGをARGとして、あくまで「代替現実ゲーム」として論じることそのものに対して私が感じていた引っ掛かりは、ここにありました。
前出の定義を是とするのであれば、(1)世界は生きていて (2)そこに意図的に加えられた改竄/工夫/遊びを「非現実」として認識した時にそれは「ゲーム」となるが (3)そうと知れるまでの間は、それは現実と同様に「世界を構成する一要素」に過ぎず、レッテル=名付けがなければ見分けがつかない、と考えられます。

私が言いたいのは、
(巻末のインタビューで大塚英志先生がご指摘なさっていたように8
私たちの周囲にある社会そのものも、大きな物語として私たちを包んでいるだけの(広く共有された)虚構であって、それは別に「どの程度現実に即している」とか「どの程度正しい」とか「どの程度科学的に立証されている」とかいうことで「信憑性」を比較検討され、十分信頼に値すると「ある程度保証」されているだけで、そんなに剛性の高いものではないのではないか、
ということなのです。

背景/常識/インフラ化

私たちに与えられた物語構造が、虚構のままでは終わらずに、社会そのものの構成要素としての剛性を持つ場合があります。
それは、「一般的な意味での常識」となった時、つまり「現実世界」を構成する大きな要素として「当然のように共有された背景」となった時です9
インターネットがひろく知られる以前は夢物語に過ぎなかったネットワークという幻想、欲望、それは、インターネットが現出することによって、SFの世界から現実世界へと具現化されました。
ARGとは、それを先取りして楽しむ遊びなのではないか。
つまり、まだ誰も知らない「背景としての」物語を、私たちだけが知っている世界として共有し合うことで、擬似的な世界をそこに創り上げてしまう、という遊びなのではないか——これが、今回のねとぽよ2号からイメージされる、ARGの定義なのです。

ARGとは「あってほしい/体験したい現実の姿」を先取りする遊びである、という定義が正しいのだとすれば、もともと個人レベルでなされていたこと10 を「周囲に拡張」した、という意味で、境界線を疑い続ける近代化という流れの到達地点と位置付けることが出来るのかも知れません。

「Totus Mundus Agit Histrionem」
 - 全世界は劇場なり

ねとぽよは、本誌ももちろんですが、紹介エントリの充実ぶりや、公式マスコット選挙事件など、一言で言うと熱量がおかしい感じがして、目が離せません。
自分の関与していないところで起こる大きな物語。
私はそれをねとぽよに見ていて、その物語が今まさに紡がれんとする様を、あるいは出力されたものを、常にちょっと早いか遅いかしながら追っているのです。

 
2012.06.06 追記
twitterで実質編集長の稲葉ほたてさんからリプが来たので、大量レスしました。
ほたてさんとヨコイさん インターネットと社会のはなし(仮)


  1. 降って湧いたようなご縁でお付き合いが始まって、何となく生放送部の人?みたいな雰囲気で末席を汚しております。 

  2. 代替現実ゲーム=Alternate Reality Gameのこと。特集で言外に提案されている「architecture of role-play generativeness」もかなり魅力的ですが。
    「ある特定のジャンルのゲームの事を指すものではなく、現実世界とネット世界、映画作品内あるいはTVゲーム内の世界を地続きの一つの世界としてプレイヤーに認識(場合によって誤認、錯覚)させ、ストーリーをプレイヤー自身が能動的/受動的に展開していく、プレイヤー参加型のゲーム、もしくはそれに似た形式によってバイラル効果を持って展開される広告手法を総称してARGと呼ぶ。」- ニコルソンより 

  3. 制作者ジェイン・マクゴニガルさんの著作『Reality is broken』(翻訳版『幸せな未来は「ゲーム」が創る』)でも言及されている、とのことです。 

  4. ARGの手法の1つで、複数のメディアを横断しながら一つの世界観を物語っていく、というもの。 

  5. ゲーレン (Arnold Gehlen, 1904-76) による。 

  6. 前掲書ではフッサールに倣ってこう名付け、
    (1)「特定の言語共同体」であり、(2) 特定の宗教、道徳や各種体制、制度等を内在させ、更に時間的・空間的にも限定された、歴史的・具体的な「特殊生活世界」(同, p.116)、と定義しています。 

  7. 「それぞれの生物種には、自らの生を維持するために特殊化された固有の「環境世界」が存在」 (同書, p.117)しており、「動(生)物と彼らがそこに生きる環境世界との間には、厳格な個別的特定性が存在」(同書, p.118)する (ユクスキュル (Jakob von Uexküll, 1864-1944) による) 。 

  8. 「物語とは本来虚実のボーダーライン上に発生する禁忌的な存在であって、それに対して昔話とはそれを切断するような形で語り始めて、物語の安全性みたいなものを担保するようなシステムだったわけね。でも近代は物語の安全装置をより求めていった時代じゃない。その傾向は強くなっているかも知れない。いくら「フィクションとしての物語」と「事実としての歴史」を区分していったところで、事実を語っていく限りにおいてそれは必ず物語になっていくわけで、物語と歴史は同義だよ(ねとぽよ2号, p.158)」 

  9. 『身体教育を哲学する』では「ヘーゲルが述語化し、マルクスが受け継いだ「疎外」概念」(p.125)を用いています。
    「疎外」とは、(1)人間主体による自らの制作物の「外化」、(2)外化された人為的制作物による人間の「支配」あるいは「拘束」という二重の関係構造をいう(pp.125-126)。「社会」という関係形式であった事象が「制度」として形象化/外化されて「自存性」を獲得し、われわれを逆に支配し拘束するに至ったならば、それは「文化」に転化した、といえる(p.126)。 

  10. 私たちの生自体も、「絶え間なく新陳代謝を繰り返して生まれ変わり続ける(物理的には全く別の、新しい)身体と、それを制御するソフトウェアとしての「私」という「物語」の維持」と言えます。
    この辺りの発想は様々なソースがありますが『生物と無生物のあいだ』福岡伸一, 講談社, 2007) などは読みやすいのでお勧めです。 

May 31, 2012 - blog    No Comments

LEE BUL:
FROM ME, BELONGS TO YOU ONLY

韓国人アーティスト、イ・ブル女史大規模個展がありました。
紹介文は森美術館の公式サイトに詳しいので、ここでは繰り返しませんが、サイトのトップに表示される『出現』という作品は金沢21世紀美術館 1 に所蔵されているらしいので、また観に行きたいと思います。

アウラ2 、という概念をめぐっては多くの議論が交わされていますが、世界が複製品で溢れて、情報化されたものにはどこでもいつでも会える、という状況に至ってなお、私たちはなまの作品に触れたいと願い、そこに出会いを求めていきます。アーティストの見た世界、息吹、その衝動、感性を、自分の身体というメディアで触れ、確認し、ともすれば追体験するために。

彼が作品の複製というものに対して抱いた嫌悪感の片鱗を、私も共有しています。けれど私は、例えば今回の展示であれば『ブルーノ・タウトに倣って(物事の甘きを自覚せよ)3 』や『秘密を共有するもの』のポストカードを買って、それをファイルに忍ばせ、何気なく取り出しては思い返し、完璧ではないにせよその気持ちを追体験しています。

思い出を思い返す時でさえ、その体験と私たちは再び邂逅し、迷い、悩み、ともすればそれによって傷付いたり、過去のある時点にまでどうしようもない力で引き戻されたり、しています。
アウラ、一回性のもの、オリジナルにしか存在しないもの。そうでしょうか。だって複製品は、複製されたものとして現出しているのです。私たちはそれに「出会って」いる。呼吸している。
答えは、まだ出ません。

クラッシュ/出現/断食芸人

最も初期の作品がソフトスカルプチュアといって布や綿を用いて作成されているのに対し、次のエリアで目にしたのは、ビーズやワイヤー、ステンレス、ポリウレタン等の人工的4 な素材を用いて作り出された作品群でした。
何気なく目にしている無機的な素材が、彼女の手によって組み合わされ、存在として姿をあらわすとき、デリケートでナイーブな女性の身体フォルムを象った全体の姿や、或いは移ろいやすい心性やはかない美しさが現出したかのような繊細なビーズ細工に、私は心を奪われ、吊り下げられた作品をただ見上げながら、また床に無造作に散らばったビーズの1つ1つの輝きを目で追いながら、その彩りに没頭したのでした。
「自分の人生や自分を取り巻く世界、社会がとても不合理で、受け容れ難いものに思えて(……)それが人類や未来へと向かっていって、終わりのない問いになりました」

ブルーノ・タウトに倣って(物事の甘きを自覚せよ)/私の大きな物語:石へのすすり泣き/朝の曲

この個展は彼女の作品群を年代毎に追っていく構成になっており、身体をイメージさせるような作品から、徐々に大きな作品、建築的な作品へと変化していきます。ここでもビースやワイヤーを用いた細工が生きていて、床面の鏡に映ってその幻想的な姿を更に美しく見せていました。
「ユートピアと幻想風景」「理想的な社会や幻想風景、現実と虚構の空間が交錯」——エスペラント語で書かれたメッセージが明滅するネオン、北欧の建築のように天を突く山、床に零れ落ちるビーズ細工の群れ。この頃になると時代を支配したイデオロギーや価値観を取り入れた作品が登場します。
彼女はブルーノ・タウトに言及し、「建築は物理的にも理想という意味でも人類が置かれる状況に関わ」っている、とした上で、「彼は検閲も限界もなく理想の環境を作ることが出来ると分かっていたのです」と表現しました。
「理想を夢見ることが大事だと思っています」

秘密を共有するもの

この作品は今回の個展にあたって制作された新しいもので、無機的な素材と有機的な(例えば木材のような)素材を組み合わせて表現されています。『出現』や『クラッシュ』に似た、けれど全く違う作品の横を通り過ぎると、一番奥が全面ガラス張りとなったエリアに背を向けてそれは現れました。アトリエを再現したエリアで24体の試作品が展示されていなければ、犬の姿だと俄には分からないような姿をした、繊細で攻撃的で、輝く、バラバラな光の群れ。体を突き破って外へ、外へ。燃えるように輝く東京の夜景の中にガラス越しに浮かび上がる姿は、彼女がインタビューの中で言及していた通り、とても孤独で、けれどすべてを預けるかのように、さらけ出しているかのように、私には見えたのです。

私からあなたへ、私たちだけに

「とても暖かくてとても愛おしくて、そんな感覚の中にいたい
できることならそれを与えたい 共有したいという気持ちを込めました
いつも別の何かを探していることがすばらしいのです
残酷で惨め、同時に幸せで楽しい
そんな対照的な状況を見比べることはできませんが
それがどういうことなのかを見極めたいと 過去20年間頑張ってきました
そのプロセスが作品なのです」


  1. 「ソンエリュミエール – 物質・移動・時間」と銘打った企画展が11月まで開催されているようなので、これにも是非行きたい!ヤン・ファーブル草間彌生ゲルハルト・リヒターアンディ・ウォーホルと聞いて行かない人がいるでしょうか。というかあれだけのラインナップの中でこのくらいにしか言及出来ない=全然知らなくてすみません。 

  2. ベンヤミンの提示した概念で、複製芸術ではないオリジナルな作品がもつ「崇高な」「一回きりの」出会い、そこに見出すもの、といったニュアンスで私は捉えています。 

  3. このタイトル、ポストカードを見ると「物事の甘きを自覚せよ」なんですが、私が当日会場でとったメモには「夢の甘きを自覚せよ」となっていました。深層心理の現れでしょうか。面白いですね。 

  4. この表現もなかなかアグレッシヴですが、どうでしょう、自然界を思わずにはいられないような素材とは別に明らかに工業的な手法によって作り出されたこれらの素材を用いた作品は、やはり存在としての手触りが異なるように思えるのです。 

Apr 30, 2012 - blog    No Comments

ネットの羅針盤:
どうする?ニッポン二次創作文化と著作権とTPP

行ってきました。内容は「TPPがもたらすかも知れない秩序変更について」。

ゲストは赤松健先生(@KenAkamatsu web)、池貝直人さん(@ikegai web)、綾川ゆんまおさん(@yunmao_ayakawa blog)、希有馬/井上純弌さん(@KEUMAYA web)、丹治吉順さん(@tanji_y FB)。司会は津田大介さん(@tsuda web)。会場からの参加は小倉秀夫先生(@Hideo_Ogura web)。

同人誌の話

(1)原稿料が低くて(2)単行本が売れないという出版不況の中ではマンガ家は生活出来ず、同人1 に頼るケースが頻発する。

コスプレの話

コスプレイヤーたちにとって自己表現/コミュニケーション手段であるコスプレは、二次創作に当たるのだろうか?

(1)衣装だけ作ってただ着ている場合、洋服のデザインは「所詮デザインであって著作物ではない」。ただし「高度の鑑賞性がある場合は著作権が発生する可能性がある」。
(2)全体として似ている場合、つまり人体を含めている場合、複製「物」になるのか?という新たな切り口が発生。入れ墨について2 問題になったケースあり。

企業イベント等にコスプレイベントが含まれているケースを見ても、歩く広告塔としての意義、また盛り上げ役としての意義もあって、一概に論じきれない。

初音ミクの話〜「作品」とは何か

多くの作品は著者の死によって急速にその市場価値を失う。著作権が失効する頃にはビッグネーム以外はほぼ絶版でサルベージも出来ない状況であり、これらの作品は青空文庫等のパブリックドメインによってすくい上げられている。
作品はたしかに作者によって生命を得るが、生命を繋ぐためには読者が必要である3 。初音ミクは創作の連鎖によって社会現象にまでなった。このことを考えるとき、作品の作品性がどこにあるか、という問題に行き着く。

ミクを取り巻く創作の連鎖から垣間見えるのは、良い作品は流動性を持っている、ということである。シンデレラ4 や白雪姫5 等は時代背景によって翻案されながら残ってきた。翻案こそ伝承の原型ではないか?6  7

変化しながら伝わる、のがコンテンツの原点だとすれば、伝承とは、翻案を間に挟むことによって作品に新しい生命を吹き込み続ける作業でもある。作品は「固定されつつ、絶えず翻案され、流動し、価値を付け加えられていく」時代へ。

米国と日本とではルールセットが違う

現状、二次創作については原作者や出版社が「目を瞑っている」状況で、安定しているが、TPPはこの著作権の秩序を変えてしまう可能性がある。
非親告罪化するということは、作者でも何でもない第三者が訴え、法廷賠償金がかかってしまう可能性が出てくるということである。

現在提示されている案では、日本の罰則はかなり厳しく、米国のようなDMCA(免責事項)もない。保護/規制が大事だという誤解を招きやすいが、保護と利用のバランスが大切である。非親告罪といった場合はデリケートな問題を取り扱うことが多いため、著作権法も同じような基準で必要以上に厳しい設定を課されようとしているのではないか。

タブーのなさが日本の創作の力だった。ルールを厳しく設定して運用でカバーするという日本のお家芸8 は、著作権に関してはダイレクトにモチベーション=創作意欲そのものに関わってくるので難しい。
米国と日本とでは商業マンガにおけるオリジナルの割合がそもそも全く異なり、社会的な背景も異なるため、ルールをそのまま適用は出来ない。TPPに対して律儀に対応する必要があるのか、という議論も起こり得る。

非親告罪化されちゃったらどうする

ここで赤松先生から大提案。
出版社と原作者は二次創作に著作権利用を認めてしまう、というのがその骨子。(1)イベント当日のみ許諾 (2)サークル参加者たちは許諾申請料を支払う、ただし払わずに活動するグレーな仕方(現状と同じ)もOK (3)海外展開も出来るように…というもの9
問題は、作家さん個々人で二次創作に対する考え方が異なるという点だが、そこは出版社がその気になって説得する。斜陽の出版業界にとっては収入源ともなり得る話なだけに実現性は高いのではないか。

先鞭を着ける

トレス検証サイトをめぐる話の中で、「全ての芸術は模倣から始まるんですよ」と赤松先生が仰ったので、ああ今回の話は全部繋がったなあ、と個人的には得心しました。
世界をどう記述するかの話なんですね。そこでお金が発生したりしなかったり。

そして創作ってデリケートだなあと思うのは、情動と密接な関係があって、生き物で言ったらカエルが環境の変化にたいへん弱いように、ちょっとしたことですぐにアウトプットが変わってしまったりするのです。根底にある創作意欲や、ものをつくるということ自体は変わっていないように見えても、その再現性(心情や主張の)は、やっぱり変わってしまうと思うので、TPPや著作権に関してはもっと対策していいと思うし、それを創作しない人たちにも分かってもらわなければならない。

「運用でカバーする日本のお家芸」という部分は会場からの質問によって出てきた視点なんですけど、その質問をした学生さんはきっと、規制があるだけで作品や創作には大きな影響が出るということが「分からない」方で、「分かる」人から見たら自明のことが全然通用しないんだなあと感じたと同時に、そういう方々を納得させられるような提案がなければ、自分たちのことを守れないんだ、と感じました。

事前に情報を入れていなかったので、打ち上げには不参加。次回の「ネットの羅針盤」までには事前調査して、打ち上げで意見交換が出来るようにしたいと思います。非常に実りある良い会でした。あと津田さんに名刺渡せてよかった。私も頑張ります。

追記:togetterでまとめられていたのでリンクします。


  1. 二次創作は、同人はOKで立体はNGとされているようです。その理由は、「立体は批評ではなく単なる真似。同人(二次元)は文化で批評性がある」から、とのこと。この基準も随分文学的なものの見方だと思いますが、やっぱりプロダクトは強いってことなんですかね。 

  2. 同一性保持権? 

  3. 著作権はこの後半部分を著しく拘束する 

  4. 『The Cinderella cycle』Anna Birgitta Rooth,『シンデレラ物語』山室静 

  5. 『白雪姫コンプレックス』佐藤紀子 

  6. 作品が「固定化」されるようになったのは印刷の登場以降ではないか、著作権という物を考え出したのも印刷業者だ、という指摘もなされているようです。『印刷革命』E.L. アイゼンステイン 

  7. 固定化された作品の神格化についてはこちら。『反音楽史―さらば、ベートーヴェン』石井宏 

  8. 交通法規のスピード違反等に見られるような。 

  9. 内容チェックについては出版社や作者は関与せず、今まで通りコミケ準備会にお任せ、という部分がかなりWin-Winな気配がしました